Compartir

第13話 白湯ラジオ、二回目

last update Fecha de publicación: 2026-08-31 11:16:45

第13話 白湯ラジオ、二回目

 翌朝、喫茶こもれびのカウンターには、おにぎりと卵焼きと白湯が並んでいた。

 喫茶店とは。

 いや、もう考えないことにした。

 この店は、数日前から喫茶店というより避難所であり、商店街会議室であり、謎の匿名ラジオ局であり、日向弁当の出張所でもある。

 コーヒーだけは一応ある。

 ただし、常連の老人から毎日まずいと言われる。

 俺はカウンターに立って、昨夜の短い配信アーカイブを確認していた。

『夜の商店街、まだ明かりついてます』

 二回目……と呼ぶには少し短かった。

 正確には、予定外の短い放送。

 テーマは、優しい言葉が怖い日。

 こはるは、たどたどしい声で言った。

『優しい言葉が、怖い時があります』

 その言葉は、コメント欄に思ったより深く刺さっていた。

【分かる】

【大丈夫?って聞かれるのしんどい時ある】

【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】

【おにぎり食べます】

【白湯とおにぎり、優勝】

 最後だけ急に生活感が強い。

 だが、悪くなかった。

 むしろ、このラジオはそういうものなのかもしれない。

 深刻な話をしているのに、最後は白湯や卵焼きやおにぎりへ戻ってくる。

 逃げているようで、逃げていない。

 重いものを、食べられる大きさに切り分けている感じ。

 俺には、そう見えた。

 ソファでは、白瀬こはるがホワイトボードを膝に乗せて座っている。

 声はまだ完全ではない。

 昨夜、少し話した後はまた喉が詰まった。

 真柴さんからも「声は短時間のみ。無理をしないでください」と追加の連絡が来ている。

 業務指示が少し人間らしくなってきた。

 こはるは、ホワイトボードに今日の予定を書いていた。

【午前 声を使わない】

【昼 白湯】

【夕方 少し寝る】

【夜 できたらラジオ】

「昼の予定、白湯だけなのか」

 俺が言うと、こはるは顔を上げた。

 少し考え、ホワイトボードに書き足す。

【昼 白湯と卵焼き】

「日向家に侵食されてるぞ」

 こはるは、声を出さずに笑った。

 その時、扉のベルが鳴った。

「おはよー! 朝の補給便でーす!」

 日向芽衣が入ってきた。

 今日も弁当袋を抱えている。

 もう完全に補給担当である。

 ただ、いつもと少し違った。

 顔が少し眠そうだ。

 それに、目元がほんのり赤い。

「芽衣」

「何」

「寝たか?」

「寝たよ」

「何時間」

「時間で睡眠を測るの、よくないと思う」

「つまり寝てないんだな」

「寝た。布団には入った」

「それは寝たとは言わない」

 芽衣は唇を尖らせた。

「だって、昨日の配信のコメント見ちゃったんだもん」

「お前も見たのか」

「見たよ。補給班として」

「その肩書き、気に入ってるな」

「わりと」

 芽衣はカウンターに袋を置いた。

「今日の卵焼きは甘いのと出汁巻き半々。あと、お母さんが小さいおにぎり作った。昨日の配信でおにぎり出たから、父さんが対抗して唐揚げおにぎり作ろうとして、母さんが全力で止めた」

「お母さん、毎日戦ってるな」

「日向家の平和は母の制止で保たれている」

 こはるがホワイトボードに書く。

【お母さんにありがとうございますと伝えてください】

「伝える。母さん、喜ぶよ。父さんは“唐揚げは?”って言う」

【唐揚げも好きです】

 芽衣の顔がぱっと明るくなる。

「言ったね? 言質取ったよ?」

「日向家、唐揚げに関して圧が強い」

 芽衣は袋から小皿を出し、卵焼きを並べた。

 その動作が、昨日より少し雑だった。

 疲れているのだろう。

 俺は言った。

「芽衣、お前も無理すんなよ」

「してない」

「嘘つけ。顔が眠い」

「悠斗兄に顔診断されたくない」

「俺の顔は情報漏洩してるらしいからな。お前の顔もだ」

 芽衣は少し黙った。

 珍しい。

 いつもならすぐ言い返してくるのに。

 こはるも、それに気づいたようだった。

 ホワイトボードに書く。

【芽衣さん、大丈夫ですか】

 芽衣は、こはるの文字を見て苦笑した。

「大丈夫。って言うと昨日の配信に怒られそうだね」

 こはるは慌てて首を横に振る。

 芽衣は椅子に座り、頬杖をついた。

「いや、でも本当にちょっと変な感じ。昨日の配信でさ、“優しい言葉が怖い時がある”って言ってたじゃん」

 こはるは頷く。

「あれ聞いてから、寝ようとしたら、母さんが“芽衣は明るいから助かるわ”って言ったの思い出しちゃって」

 芽衣の声は、いつもより少し低かった。

「別に嫌じゃないんだよ。母さんも父さんも忙しいし、私が明るくしてると店が回るのも分かるし。常連さんにも“芽衣ちゃんがいると店が明るいね”って言われるの、嬉しい時もある」

「うん」

「でも、昨日は何か、急に重く感じた」

 芽衣は笑った。

 笑ったが、少しだけ疲れた笑いだった。

「明るいって言われると、暗い顔しちゃ駄目な気がするんだよね。別に誰もそんなこと言ってないのに。勝手にそう思う」

 こはるは、しばらくホワイトボードを見つめていた。

 それから、ゆっくり書く。

【明るくない芽衣さんも、いていいと思います】

 芽衣は、その文字を見て、変な顔をした。

 泣きそうな、笑いそうな、怒りそうな、全部混ざった顔。

「こはるちゃん、それさ」

 芽衣は小さく息を吐いた。

「自分にも言ってあげなよ」

 こはるの手が止まる。

 芽衣は続ける。

「声が出ないこはるちゃんも、いていい。笑えないこはるちゃんも、いていい。卵焼きを三切れ食べるこはるちゃんも、白湯を真剣に飲むこはるちゃんも、いていい」

 こはるは、目を伏せた。

 ホワイトボードに書く。

【難しいです】

「だよね。私も難しい」

 芽衣は、卵焼きを一切れつまんで、自分の口に入れた。

「あ、うま」

「自分で食うのか」

「補給班も補給しないと倒れる」

「正しい」

 こはるは、声を出さずに笑った。

 その朝、喫茶こもれびには、妙な穏やかさがあった。

 神谷レンからのメッセージは、夜以降止まっている。

 それが逆に不気味ではあったが、少なくとも今朝は、店内に火の粉は入ってきていない。

 こはるは午前中、声を使わずに過ごした。

 代わりに、八百屋のきゅうりポップを書き直したり、模型店の戦車ポップの字を少し大きくしたり、ゲームセンターの朝日さんに頼まれて「一回百円。昔の百円より軽いけど、まだ遊べます」というポップを書いたりした。

 商店街の人間は、遠慮がない。

 声が出ないと知っているのに、次々と用を頼みに来る。

 最初はどうかと思ったが、こはるは意外と嫌そうではなかった。

 もちろん疲れる。

 でも、「声が出ないから何もできない」より、「声が出ないけど字なら書ける」の方が、今の彼女には少し楽なのだろう。

 昼過ぎ、源三さんが来た。

「黒瀬」

「はい」

「今日の夜もやるのか」

「ラジオですか」

「それ以外に夜やることがあるのか」

「喫茶店にも色々ありますよ」

「ないだろ」

「否定が早い」

 源三さんは、いつもの席に座った。

「昨日、商店街の連中が聞いたそうだ」

「え」

 俺は眉を上げた。

「誰が?」

「八百屋、模型屋、ゲーム屋、あと日向の母親」

「身内率が高い」

「身内でも客は客だ」

「ラジオの客って言うんですかね」

 源三さんは、こはるを見る。

「娘」

 こはるはホワイトボードを持つ。

【はい】

「今日は喋らんでもいい」

 その言葉に、こはるの目が少し動いた。

 源三さんは新聞を取り出しながら続ける。

「声を出すのが仕事なら、出さん日も仕事だ」

 こはるは、じっと源三さんを見た。

 それからホワイトボードに書く。

【真柴さんみたいです】

 源三さんは渋い顔をした。

「あのスーツの女か」

【はい】

「わしはもっと年季が入っとる」

「そこ張り合うんですか」

 こはるは肩を揺らして笑った。

 源三さんはコーヒーを飲み、いつものように言う。

「まずい」

 だが今日は、続けた。

「だが、夜に聞くにはちょうどいいまずさかもしれん」

「まずさにも時間帯があるんですか」

「ある。朝は腹が立つ。夜は諦めがつく」

「深いようで、ただ悪口じゃないですか」

 源三さんは新聞を広げる。

「今日のラジオで言え」

「営業妨害を自分から配信しろと」

「隠すほどの味ではない」

「もう少し隠させてください」

 こはるがホワイトボードに書いた。

【夜は諦めがつくまずさ】

「書かなくていい」

 芽衣が横で爆笑している。

「それ絶対ウケるよ、悠斗兄」

「ウケていいのか、喫茶店として」

「バズるかも」

「まずいでバズるの、嫌だな」

 夕方になるまで、俺たちはラジオをやるかどうか決めなかった。

 こはるの喉次第。

 体調次第。

 怖さ次第。

 配信は義務にしない。

 それが、今のこもれびルールだった。

 だが、日が傾き始めた頃、こはるはホワイトボードに書いた。

【今日は、少しなら話せそうです】

 俺は、すぐには頷かなかった。

「無理してないか」

【少し怖いです】

「怖いなら」

【でも、怖いだけじゃないです】

 こはるは、窓の外を見た。

 商店街の明かりが、一つずつ灯り始める時間だった。

【昨日より、商店街の話があります】

「話したいことがあるってことか」

 こはるは頷く。

 俺は、息を吐いた。

「じゃあ、条件は昨日と同じ。短く。苦しくなったら終わり。コメントは俺が見る。名前は出さない」

【はい】

「終わったら白湯」

【はい】

 芽衣が手を挙げる。

「今日はおにぎり? 卵焼き?」

「補給に悩むな」

「テーマによる」

「何ラジオなんだよ」

 こはるは少し考えて、ホワイトボードに書いた。

【今日は白湯】

 芽衣が真剣に頷いた。

「白湯ラジオだ」

「また勝手に名前が増えた」

 その夜、二回目の本格配信が始まった。

 喫茶こもれびの閉店後。

 カーテンは半分閉めた。

 店内の照明は少し落とした。

 カウンターにはマイク。

 横には白湯。

 後方に芽衣。

 補給班、今日は湯温管理担当である。

 番組名は変えない。

『夜の商店街、まだ明かりついてます』

 配信説明はこうした。

『今夜は、商店街の朝と、まずいコーヒーと、白湯の話を少しだけ。眠れない人は、無理に寝なくても大丈夫です。』

 こはるは、マイクから少し離れた椅子に座る。

 手にはホワイトボード。

 声が詰まったら、無理せず文字で俺に伝えるためだ。

 俺は配信開始ボタンに指を置いた。

「いくぞ」

 こはるが頷く。

 芽衣が白湯のカップを掲げる。

「白湯、待機よし」

「なんで軍隊みたいなんだ」

「補給班なので」

 俺は、配信開始を押した。

 ライブ配信中。

 同接、二。

 すでに二人いた。

 俺は思わず画面を見た。

「……早いな」

 コメントが流れる。

【待ってました】

【白湯持ってきました】

 芽衣が後ろで小声で「白湯勢いる」と言った。

 俺はマイクに向かう。

「こんばんは。夜の商店街、まだ明かりついてます。今夜も、潰れかけの喫茶店からお送りします。今日の補給は白湯です」

 コメント。

【こんばんは】

【補給w】

【昨日のおにぎり回よかった】

「おにぎり回というジャンルができてしまいましたが、今日は白湯回です。白湯というのは、つまりお湯です。お湯なのに、なぜか人間に優しい顔をします」

 こはるが少し笑った。

 同接、六。

 俺は続ける。

「今日は商店街の朝の話をします。まず、日向弁当は朝から揚げ物の匂いがします。あれは、寝起きの胃には暴力です」

 後ろから芽衣が小声で抗議する。

「暴力じゃなくて愛情」

「補給班から訂正が入りました。揚げ物の匂いは愛情だそうです」

 コメント。

【補給班w】

【朝から唐揚げいいな】

【胃が若い】

 芽衣が満足そうに頷く。

 俺は商店街の話を続けた。

「八百屋では、朝採りトマトのポップが少し評判です。“噛むと夏っぽいです”。書いた本人は、たぶんそんな大ごとになると思っていませんでした」

 こはるが少し目を伏せる。

 コメント。

【いいポップ】

【夏っぽいトマト食べたい】

【商店街行きたくなる】

 同接、十二。

 昨日の最大同接に、もう並んだ。

 こはるが画面を見て、少し息を呑む。

 俺は小さく言う。

「数字は見なくていい」

 こはるは首を横に振った。

 見ていたいらしい。

 怖いけど、見ていたい。

 俺は頷いて、話を続けた。

「模型店では、古いロボットのポップがつきました。“新しくないけど、立っている姿が強い”。俺はこれ、けっこう好きです。新しくないけど、立っている姿が強い。できれば俺もそうなりたい。まあ、現状はカウンターで寝落ちして首を痛めているので、立ち姿以前の問題があります」

 コメント。

【首お大事に】

【新しくないけど立ってる、いい】

【店主さんの自虐すき】

 こはるが、ホワイトボードに何か書いて俺に見せた。

【話します】

 俺は頷き、マイクを少しだけ向ける。

 こはるは、白湯を一口飲んだ。

 息を吸う。

「……こんばんは」

 コメントが流れる。

【こんばんは】

【声きた】

【無理しないで】

【ゆっくりでいいよ】

 こはるは画面を見ないようにして、手元のホワイトボードを見た。

 そこには、彼女自身が書いた短いメモがある。

【朝の商店街】

【声じゃなくても用があった】

【白湯】

 こはるは、ゆっくり喋り始めた。

「今日は……朝の商店街を、歩きました」

 声はまだ細い。

 けれど、昨日より少し落ち着いている。

「八百屋さんの、トマトが……赤かったです」

 俺は一瞬、笑いそうになった。

 赤い。

 八百屋のおじさんの語彙に戻っている。

 こはるもそれに気づいたのか、少しだけ口元を緩めた。

「でも、赤いだけじゃなくて……噛むと、夏っぽいそうです」

 コメント。

【夏っぽいトマトw】

【食レポかわいい】

【赤いだけじゃない】

 こはるは、少しだけ安心したように息を吐く。

「模型店では……古いロボットを見ました。新しくないけど、立っている姿が強かったです」

 コメント。

【その表現すき】

【古いロボット見たい】

【ちゃんと立ってるのえらい】

「ゲームセンターでは……遊ばれすぎたゲームが、まだ遊べました」

 コメント。

【遊ばれすぎたゲーム】

【泣ける】

【古いゲーセンいいな】

 同接、十九。

 芽衣が後ろで口元を押さえている。

 こはるは続けた。

「声が出ない日でも……文字なら、少し置けました」

 店内が静かになった。

「誰かの店に、文字を置けました」

 コメントが止まる。

 数秒後、ぽつぽつ流れ始めた。

【いいな】

【声じゃなくても届くんだ】

【今日はメール一通返せたので勝ちにします】

【文字を置くって表現すき】

 こはるの目が揺れる。

 俺は、コメント欄の流れを見ながら、変なものがないか確認する。

 今のところ、大丈夫。

 温かい。

 この小さなラジオには、まだ変な火は入り込んでいない。

 こはるは、最後に小さく言った。

「白湯は……優しいです」

 コメント。

【急に白湯】

【白湯作ります】

【白湯優勝】

【白湯しか勝たん】

 芽衣が「白湯が勝った」と呟いた。

 俺はマイクに向かって言う。

「補給班から、白湯の勝利宣言が出ました」

 コメントが笑いで流れる。

 同接、二十七。

 最大二十七人。

 増えている。

 昨日の倍以上。

 だが、不思議と怖さだけではなかった。

 二十七人。

 まだ顔が見える。

 まだ、流れではなく人に見える。

 俺は少しだけ肩の力を抜いた。

「では、ここで喫茶こもれびのコーヒーについて重要なお知らせがあります」

 コメント。

【まずい?】

【まずいコーヒーきた】

【待ってた】

「まだ言ってないのに、なぜまずいと分かるんでしょうか。風評被害です」

 芽衣が後ろで「事実」と小さく言う。

「補給班、黙ってください」

 コメント。

【補給班w】

【風評被害(事実)】

【飲みたい】

「常連の老人によると、朝飲むと腹が立ち、夜飲むと諦めがつくまずさだそうです」

 コメント欄が一気に流れた。

【なにそれw】

【飲みたい】

【夜に諦めたい】

【老人の表現好き】

【まずいのに気になる】

 こはるが笑いをこらえている。

 俺は続けた。

「店主としては不本意ですが、いつか皆さんに“諦めがつくまずさ”をお届けできるよう精進します。いや、精進したらうまくなるのか? まずさを維持すべきなのか? 経営方針が揺らぎます」

 芽衣が言う。

「白湯もあります」

「補給班から白湯の宣伝が入りました」

 コメント。

【白湯ください】

【まずいコーヒーと白湯の店】

【行きたい】

【商店街どこ?】

 そのコメントを見た瞬間、俺は少しだけ警戒した。

 商店街どこ?

 悪意ではない。

 自然な興味だ。

 でも、場所が知られることは危険でもある。

 俺はすぐに言った。

「場所はまだ秘密です。終わりかけの商店街は、終わりかけなので恥ずかしがり屋なんです」

 コメント。

【了解】

【秘密の商店街】

【恥ずかしがり屋w】

【いつか行きたい】

 危なかった。

 大丈夫。

 今のところ、空気は崩れていない。

 配信は二十五分で終わらせることにした。

 最後にこはるが一言だけ言う。

「眠れない人は……無理に、寝なくてもいいと思います」

 少し間を置く。

「でも、白湯を飲む時は……火傷しないでください」

 コメント。

【やさしい】

【火傷気をつける】

【おやすみ】

【また聞きたい】

【白湯飲みます】

 俺はマイクに向かって締めた。

「今夜はここまでです。聞いてくれた二十七人、ありがとうございます。店主はこれから、まずいコーヒーをどう扱うか考えます。補給班は白湯の温度を管理します。皆さんも、できる範囲で明かりを消したり、つけたりしてください」

 配信終了。

 画面が切り替わる。

 ライブ配信は終了しました。

 店内に、静かな余韻が落ちた。

 こはるは、椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。

 芽衣が白湯を差し出す。

「補給」

 こはるは受け取って、小さく飲んだ。

「……怖かった、です」

 声は少し掠れている。

 俺は頷いた。

「でも、昨日より喋れてた」

「はい」

「喉は?」

「少し、疲れました」

「じゃあ今日はもう終わり。完全閉店」

 こはるは頷く。

 芽衣が、配信画面の数字を見た。

「二十七人だって」

「増えたな」

「すごいね」

 こはるは、白湯のカップを見つめた。

「二十七人も、いました」

 また、その言い方だった。

 十二人も。

 二十七人も。

 数字を小さく扱わない。

 俺は、その感覚を忘れたくないと思った。

 芽衣は感動した顔をしていたが、次の瞬間、真顔になった。

「あ、うちの父さんの腰の話、し忘れた」

「しなくていい」

「でもプロット的に」

「何のプロットだよ」

 こはるが笑った。

 声は出さないように、口元を押さえて。

 その笑いを見て、俺は本当に少し安心した。

 だが、配信後のコメント欄を確認した時、その安心は長く続かなかった。

 最初のコメントは、いつも通り温かかった。

【今日も落ち着いた】

【商店街の話好き】

【白湯作った】

【まずいコーヒー飲みたい】

【補給班すき】

 その中に、一つだけ異物が混ざっていた。

【この声、どこかで聞いたことある】

 俺の指が止まった。

 こはるも、それを見ていた。

 芽衣が後ろから画面を覗き込み、顔を強張らせる。

 店内の空気が、一瞬で冷える。

 ただの一コメント。

 何でもないかもしれない。

 声が似ている人間なんて、いくらでもいる。

 かすれた小さな声だ。

 月乃こはねの明るい声とは違う。

 そう思いたかった。

 だが、そのコメントは消えない。

 画面の中に残っている。

 こはるは白湯のカップを持ったまま、固まっていた。

「……黒瀬さん」

 声が震えている。

「大丈夫」

 俺は反射的に言った。

 しかし、こはるは俺を見た。

「嘘、です」

 顔に出ている。

 そう言われた気がした。

 俺は、息を吐いた。

「……大丈夫じゃない。でも、まだ一つだ」

 芽衣が頷く。

「そう。一つだけ。今すぐ決めなくていい」

 こはるは、ゆっくり頷いた。

 だが、その目には、昨日までとは違う恐怖が浮かんでいた。

 声が届くことの嬉しさ。

 そして、声で見つかることの怖さ。

 その二つが、同じ場所から来ることを、俺たちは改めて思い知らされた。

 喫茶こもれびの灯りは、まだついている。

 けれど、画面の向こうで、誰かがその灯りの場所を探し始めている。

 そんな気がした。

Continúa leyendo este libro gratis
Escanea el código para descargar la App

Último capítulo

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第16話 役に立たない日のラジオ

    第16話 役に立たない日のラジオ 翌朝、喫茶こもれびのテーブルには、白湯と卵焼きと、昨日のラジオのコメント欄が並んでいた。 正確には、コメント欄はノートパソコンの画面の中にある。 でも、感覚としては、テーブルの上に置かれているようだった。 白湯のカップ。 少し焼き目のついた甘い卵焼き。 日向弁当の小さなおにぎり。 そして、夜のどこかから届いた、知らない人たちの言葉。【いいと思う】【今日、何もできなかった】【仕事休んだ】【学校行けなかった】【一日布団にいた】【でも今これ聞いてる】【役に立てない日、あります】【生きてていいって言ってほしい】【白湯しか飲んでない】【でも白湯飲めたから勝ちにしたい】 白瀬こはるは、そのコメント欄を何度も読んでいた。 朝から、ずっと。 声は出していない。 喉を休ませるためでもあるし、昨日の電話と配信で、心の方が疲れているのもあった。 それでも、こはるは画面から目を離さなかった。 俺はカウンターでコーヒーを淹れながら、その様子を見ていた。「読みすぎると疲れるぞ」 こはるは、ホワイトボードに書いた。【疲れます】「じゃあ休め」【でも、読みたいです】「疲れるのに?」【はい】 少し間を置いて、彼女は書き足す。【私だけじゃなかったので】 その文字を見て、俺は何も言えなくなった。 昨夜、こはるはラジオで問いかけた。『誰かの役に立てない日も、生きていていいんでしょうか』 それは、誰かに向けた問いであると同時に、こはる自身がずっと自分に投

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第15話 こはるの母からの電話

    第15話 こはるの母からの電話 白瀬こはるの母親から連絡が来たのは、昼過ぎだった。 その日は、ラジオを休みにする予定だった。 こはるの喉は昨日より落ち着いていたが、まだ長く話すと掠れる。 真柴さんからも「今日はなるべく声を使わないでください」と連絡が来ていたし、芽衣も「今日は完全休養。補給班命令」と言っていた。 だから、喫茶こもれびの昼は比較的静かだった。 源三さんは午前中に来て、コーヒーを飲み、いつも通り「まずい」と言って帰った。 佐伯さんはナポリタンではなく白湯だけ頼み、「白湯って、何もしない味がするわね」と謎の名言を残した。 八百屋の親父さんはきゅうりのポップが気に入ったらしく、「まっすぐじゃないけど、ちゃんと冷たい」が売れていると報告しに来た。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードではなくメモ帳に新しいポップ案を書いていた。『古いゲーム機です。 でも、負けた時の悔しさは新しいです。』 ゲームセンターの朝日さん用らしい。 俺がそれを見て「名文だけど客が怖がらないか」と言うと、こはるは少しだけ笑い、下にこう書き足した。『勝ったら、もっと新しいです。』「商売が分かってきたな」 俺が言うと、こはるはホワイトボードに書いた。【商店街に染まってきました】「染まると戻れなくなるぞ」【少し怖いです】「だろうな」【でも、嫌じゃないです】 その文字を見て、俺は少しだけ安心していた。 嫌じゃない。 最近のこはるは、その言葉をよく使うようになった。 好き、と言うにはまだ怖い。 楽しい、と言い切るにはまだ心が追いつかない。 でも、嫌じゃない。 そのくらいの距離感が、今の彼女にはちょ

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第14話 芽衣は、少しだけ面白くない

    第14話 芽衣は、少しだけ面白くない 日向芽衣は、明るい。 少なくとも、この商店街ではそういうことになっている。 日向弁当の娘。 いつも声が大きくて、配達用の自転車を全力でこいでいて、揚げたての唐揚げを一つ多く入れたことを母に怒られ、父の揚げすぎを止め、常連の老人に雑に絡み、客の愚痴を「はいはい」と聞き流しながら、最後には笑って弁当を渡す。「芽衣ちゃんがいると、店が明るくなるね」 そう言われるのは、嫌いではなかった。 むしろ、嬉しかった。 自分がいることで、誰かが少し楽になるなら。 沈みかけた商店街の中で、日向弁当の灯りが少しでも明るく見えるなら。 それは、まあ、悪いことではない。 でも、たまに思う。 明るいって、便利な言葉だ。 明るい子は怒らない。 明るい子は面倒を拾える。 明るい子は、冗談で返せる。 明るい子は、ちょっと傷ついても次の日には笑っている。 そんなルール、誰も言っていない。 言っていないのに、いつの間にか自分で守っている。「……面倒くさ」 芽衣は日向弁当の厨房で、卵焼きを巻きながら小さく呟いた。 朝の仕込みは戦争だ。 父は唐揚げを揚げている。 母はレジ横の予約表を確認している。 炊飯器からは湯気。 まな板の上には、刻まれた漬物。 ラジオからは、天気予報と交通情報。 いつもと同じ朝。 なのに、芽衣の頭の中には、昨夜の匿名ラジオのコメントが残っていた。【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】 あれは、たぶん自分にも関係がある。 認めたくないけど、ある。「芽衣、

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第13話 白湯ラジオ、二回目

    第13話 白湯ラジオ、二回目 翌朝、喫茶こもれびのカウンターには、おにぎりと卵焼きと白湯が並んでいた。 喫茶店とは。 いや、もう考えないことにした。 この店は、数日前から喫茶店というより避難所であり、商店街会議室であり、謎の匿名ラジオ局であり、日向弁当の出張所でもある。 コーヒーだけは一応ある。 ただし、常連の老人から毎日まずいと言われる。 俺はカウンターに立って、昨夜の短い配信アーカイブを確認していた。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 二回目……と呼ぶには少し短かった。 正確には、予定外の短い放送。 テーマは、優しい言葉が怖い日。 こはるは、たどたどしい声で言った。『優しい言葉が、怖い時があります』 その言葉は、コメント欄に思ったより深く刺さっていた。【分かる】【大丈夫?って聞かれるのしんどい時ある】【元気そうって言われると、元気じゃないって言えなくなる】【おにぎり食べます】【白湯とおにぎり、優勝】 最後だけ急に生活感が強い。 だが、悪くなかった。 むしろ、このラジオはそういうものなのかもしれない。 深刻な話をしているのに、最後は白湯や卵焼きやおにぎりへ戻ってくる。 逃げているようで、逃げていない。 重いものを、食べられる大きさに切り分けている感じ。 俺には、そう見えた。 ソファでは、白瀬こはるがホワイトボードを膝に乗せて座っている。 声はまだ完全ではない。 昨夜、少し話した後はまた喉が詰まった。 真柴さんからも「声は短時間のみ。無理をしないでください」と追加の連絡が来ている。 業務指示が少し人間らしくな

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第12話 神谷レンは、優しい顔で火を近づける

    第12話 神谷レンは、優しい顔で火を近づける 神谷レンという男は、昔から文章がうまかった。 うまい、というより、綺麗だった。 角がない。 刺がない。 読み手が勝手に好意を補ってくれる余白がある。 たとえば、今朝届いたメッセージもそうだ。【昨日の配信、聞いたよ。いい声の子だね】 ただ読むだけなら、褒め言葉だ。 昨日の匿名ラジオを聞いた。 声がよかった。 それだけ。 何も悪いことは書いていない。 誹謗中傷でもない。 脅しでもない。 むしろ、優しい。 けれど、その「優しさ」の形が、俺の胃の奥を冷たくした。 いい声の子。 それは、こはるの一番柔らかい場所に触れる言葉だった。 彼女は声で生きてきた。 声で救われ、声で求められ、声で追い詰められ、声が出なくなった。 それを知っているのか。 知らずに言ったのか。 どちらにしても、嫌だった。 俺は喫茶こもれびのカウンターで、スマホを伏せたまま、しばらく動けずにいた。 午前中の店内は、いつも通り静かだった。 源三さんは新聞を読みながら、まずいコーヒーを完飲している。 芽衣は弁当屋に戻ったり、また来たりを繰り返している。 こはるは窓際の席で、ホワイトボードを膝に置き、昨日のアーカイブのコメント欄をゆっくり読んでいた。 たった十二人のコメント欄。 その小さな場所が、今の彼女には大事だった。 だからこそ、俺は神谷レンのメッセージをどう扱うべきか迷っていた。 見せるべきか。 見せないべきか。 隠せば、こはるは今の穏やかな顔のままでいられるかもしれない。

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第11話 同接十二人の朝

    第11話 同接十二人の朝 朝になっても、十二という数字は消えていなかった。 喫茶こもれびのカウンターに置いたノートパソコンの画面に、昨夜の配信アーカイブが残っている。 番組名は、まだ少し照れくさい。『夜の商店街、まだ明かりついてます』 最大同時接続数、十二人。 総再生数、三十四。 コメント、二十七件。 どれも、昔の俺なら気にも留めなかった数字だ。 いや、気にも留めなかったどころか、見た瞬間に胃が沈んでいたと思う。 登録者八十万人の頃、同接が少し落ちただけで、俺は配信後に何度もアナリティクスを見直していた。 何分で離脱されたか。 どの話題でコメントが減ったか。 どのゲームなら数字が取れるか。 次は誰とコラボすれば伸びるか。 そんなことばかり考えていた。 十二人。 昔の俺なら、敗北の数字だった。 でも昨夜、こはるは言った。「十二人も、いました」 その声が、まだ耳に残っている。 細くて、掠れていて、泣いた後の、でもどこか嬉しそうな声。 俺は、パソコン画面を見つめながら、冷めかけたコーヒーを飲んだ。「まずい」 自分で言ってしまった。 悔しいが、まずい。 源三さんに毎日言われているせいで、味覚まで洗脳されてきたのかもしれない。 ソファの方を見る。 白瀬こはるは、毛布にくるまって眠っていた。 昨夜の配信後、彼女は卵焼きを一切れ食べ、白湯を飲み、それから力尽きるように眠った。 スマホはタオルに包まれたまま、テーブルの端に置いてある。 途中で何度か震えた。 俺のスマホも、何度も震えた

Más capítulos
Explora y lee buenas novelas gratis
Acceso gratuito a una gran cantidad de buenas novelas en la app GoodNovel. Descarga los libros que te gusten y léelos donde y cuando quieras.
Lee libros gratis en la app
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status