LOGIN翌朝、喫茶こもれびのカウンターには、おにぎりと卵焼きと白湯が並んでいた。
喫茶店とは。
いや、もう考えないことにした。
この店は、数日前から喫茶店というより避難所であり、商店街会議室であり、謎の匿名ラジオ局であり、日向弁当の出張所でもある。コーヒーだけは一応ある。
ただし、常連の老人から毎日まずいと言われる。俺はカウンターに立って、昨夜の短い配信アーカイブを確認していた。
『夜の商店街、まだ明かりついてます』
二回目……と呼ぶには少し短かった。
正確には、予定外の短い放送。テーマは、優しい言葉が怖い日。
こはるは、たどたどしい声で言った。
『優しい言葉が、怖い時があります』
その言葉は、コメント欄に思ったより深く刺さ
第62話 出せば終わると思った 出せば終わると思った。 いや、正確には、出せば終わってほしかった。 昨日、古い夜更かしから届いた資料。 暴露系Aと神谷レン側の現在の連絡ログらしきもの。 そこには、俺たちの言葉が「材料」として扱われていた。「白湯側が声明出した」「周辺で疑問形にして投げる」「本人は心配ポジ維持」「“対話拒否”と“証拠ちらつかせ”の線でいける」「“個人同士の連絡や対話を材料にするな”はこっちに刺さるから、先に“説明責任”で上書き」 心配ポジ。 説明責任で上書き。 疑問形にして投げる。 それは、人間の言葉というより、広告の配置図みたいだった。 誰かの苦しみがある。 それをどう切るか。 どう置くか。 どのタイミングで出すか。 本人は触れない方がいい。 周辺で投げる。 疑問形にする。 心配の形にする。 吐き気がした。 それと同じくらい、胸の奥が熱くなった。 怒りだ。 ずっと昔から、俺の中に置きっぱなしだった怒り。 クロユウとして炎上した時、俺は怒ることすらうまくできなかった。 怒れば「逆ギレ」と切られる。 黙れば「逃亡」と切られる。 説明すれば「言い訳」と切られる。 謝れば「やっぱり悪かった」と切られる。 何をしても、切られた。 切られて、並べられて、見世物にされた。
第61話 後戻りできない資料 翌朝、俺はこはるの顔をまともに見られなかった。 理由は分かっている。 昨日の夜、こはるが俺を呼んだ。「……悠斗さん」 たった五文字。 声としては、かすれていた。 小さかった。 たぶん、配信で使っていた月乃こはねの声とはまるで違う。 それでも俺には、耳の奥に残るには十分すぎた。 朝、コーヒー豆を量っている最中にも思い出した。 カップを洗っている時にも思い出した。 店先の五つのトマトを見た時にも、なぜか思い出した。 五つのトマトと「悠斗さん」に何の関係があるのかは分からない。 ただ、思い出した。 人間の脳は、時々まったく関係ないものを同じ箱に入れる。 たぶん今の俺の頭の中には、「白湯」「トマト」「悠斗さん」「照れ逃げ顔」が一緒の棚に入っている。 最悪だ。 こはるも、明らかにおかしかった。 窓際の席に座っているが、いつもより少し姿勢が硬い。 白いパーカーの袖を指先まで引っ張り、ホワイトボードを膝に乗せている。 俺が白湯を置きに行くと、彼女は一瞬こちらを見て、すぐ目をそらした。「白湯、置いとく」 俺が言うと、こはるは小さく頷いた。 そして、ホワイトボードに書く。【ありがとうございます】 いつもの文字。 いつものやり取り。 なのに、昨日の声が間に挟まっているせいで、どうにも落ち着かない。 俺は意味もなくカップの向きを直した。 こはるも意味もなく白湯のカップを少し回した。 二人して、白湯の周りで不審
第60話 推しが、俺の名前を呼んだ日 好きだったものを、嫌いにならないために休む。 その言葉は、朝になってもこもれびのテーブルの上に残っていた。 紙に書いたわけではない。 けれど、そこにある。 白湯のカップの横。 名前の箱のそば。 証拠の箱の上に置かれた、昨日の方針札の隣。【今日の置き場所】 その紙を見るたびに、俺は昨日のこはるの文字を思い出す。【月乃こはねを辞めたいほど苦しい】【月乃こはねを嫌いになりたくない】【嫌いにならないために、離れたい】 矛盾している。 だが、人間の本音なんてだいたい矛盾している。 辞めたい。 でも、捨てたくない。 逃げたい。 でも、嫌いになりたくない。 声を休ませたい。 でも、待ってくれている人に何かを返したい。 その全部を、昨日こはるは箱に入れた。 今日は、それを言葉にする日だった。 喫茶こもれびは、朝から妙に静かだった。 静かすぎて、かえって落ち着かない。 店先には、昨日の五つのトマトが並んでいる。 八百屋の親父さんは、「五人衆は崩すな」と言って帰っていった。 崩すなと言われても、トマトだ。 熟れたら食べるしかない。 源三さんは入口近くで新聞を読んでいる。 今日は足元に何もない。 と思ったら、カウンターの端に小さなザルが置いてあり、中にきゅうりが三本入っていた。 もう誰が置いたのかも分からない。 商店街では、野菜が自然発生する。 こはるは窓際の席にいた。 白いパーカー。
第59話 辞めたいと言った夜 その夜、こはるは一度も泣かなかった。 だから、逆に危ないと思った。 泣く時は、まだ外へ出ている。 涙という形で、体の外へ出ている。 けれど、泣かない時のこはるは、内側に水が溜まっていくように見えた。 静かで、薄くて、触れたら冷たい。 昨日、事務所上層部から「本人との直接面談」「契約上の問題」という言葉が来た。 こはるは書いた。【声が出ない私は、損害ですか】 その文字は、俺の中にまだ残っている。 損害。 十九歳の女の子が、自分の喉と自分の存在に対して使うには、あまりにも冷たい言葉だった。 俺は怒った。 真柴さんに止められた。 芽衣はプリンを出した。 源三さんは「紙は人の上に置くな」と言った。 そして、こはるは名前の箱と証拠の箱の横に、方針の札を置いた。【直接会うかどうかは、私の体も一緒に決めます】 それは、昨日の小さな勝ちだった。 けれど、小さな勝ちは、次の日の朝に全部を救ってくれるわけではない。 朝のこもれびで、こはるはいつもの窓際の席に座っていた。 白いパーカー。 膝の上のホワイトボード。 隣に白湯。 スマホは避難箱の中。 証拠の箱と名前の箱は、カウンターの下の棚に並んでいる。 店先には、今日もトマトがある。 四つだったはずのトマトは、五つになっていた。 さすがに聞いた。「八百屋さん、トマト増えてません?」 八百屋の親父さんは、店先で腕を組みながら言った。「五人衆だ」
第58話 契約上の問題 契約上の問題。 その言葉は、朝になっても喫茶こもれびの中に残っていた。 昨日、月乃こはね公式アカウントが動いた。 体調不良による活動休止継続。 憶測には回答しない。 詮索、接触、撮影、確認行為は控えてほしい。 今後の活動については、本人の体調および関係各所との協議を踏まえ、慎重に判断。 外から見れば、無難な文章だったのだと思う。 けれど、こはるには違った。 彼女は書いた。【月乃こはねが、遠くなりました】 そして、夜には名前の箱へ三枚の札を入れた。【月乃こはねは、少し遠くにいる】【声を守る人】【ここにいる白瀬こはる】 それだけで、昨日は閉店できた。 だが、閉店できたことと、問題が消えたことは違う。 朝のこもれびには、まだ「契約上の問題」という冷たい言葉が置かれていた。 俺は、カウンターの上を拭いていた。 拭く必要は、たぶんない。 昨日も拭いた。 一昨日も拭いた。 カウンターだけなら、今のこもれびは王宮の食卓より綺麗かもしれない。 だが、手を動かしていないと落ち着かなかった。 こはるは窓際の席にいた。 白いパーカー。 膝の上のホワイトボード。 隣の白湯。 目の前には名前の箱。 今日は、その箱を開けていない。 箱を見るだけで、月乃こはねという札が大きくなりすぎる気がするのかもしれない。 源三さんは入口近くで新聞を広げている。 今日は足元に何もない。 そう思った瞬間、テーブルの横に白菜が半玉置いてあるのに気づいた。 もう何も聞かない。
第57話 月乃こはね公式、動く 名前の箱に【悠斗さん】という札が入った翌日、月乃こはね公式アカウントが動いた。 それは、昼過ぎだった。 喫茶こもれびは、珍しく普通の喫茶店らしい時間を過ごしていた。 カウンターでは俺がカップを拭き、窓際ではこはるが白湯を飲み、入口近くでは源三さんが新聞を読み、店先では八百屋の親父さんが勝手にトマトの位置を直していた。 トマトは四つになっていた。 理由は聞いていない。 聞くと、たぶん「四天王だ」とか言われる。 いや、八百屋の親父さんなら言いかねない。 芽衣は日向弁当の昼の波が少し落ち着いてから来る予定だった。 今日はまだ来ていない。 だから店内は、比較的静かだった。 静かで、少しだけ眠くなるような午後。 こういう時間が続けばいいのに、と俺は思った。 思った瞬間、スマホ避難箱が震えた。 こつん。 木の箱の中でスマホが鳴る音は、もう俺たちにとって警報に近い。 こはるの肩が小さく跳ねた。 源三さんが新聞を下ろす。 俺は手に持っていたカップを、そっとカウンターに置いた。「見ます」 俺が言うと、こはるはホワイトボードを握った。【真柴さんですか】「確認する」 スマホ避難箱を開ける。 通知は真柴さんからだった。『月乃こはね公式アカウントから、追加告知が投稿されました。私が先に確認しています。直接見ないでください。通話できますか』 月乃こはね公式。 その文字だけで、こはるの顔から少し血の気が引いた。 名前の箱の中にある【月乃こはね】の札が、箱の中から勝手